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静岡地方裁判所沼津支部 昭和25年(わ)386号 判決

被告人 藤井庄次

昭二・七・一四生 鳶職

主文

被告人は無罪。

理由

第一、公訴事実

本件公訴事実は、被告人は大庭啓作、相被告人藤井義一、同大庭光義、同芹沢五一、同大庭清と共謀の上、静岡県駿東郡深良村(現在は裾野町)岩波二〇六番地の二雑貨商前田かめ方より金員を強取せんことを企て、昭和二三年一〇月二七日午前一時頃右前田方に赴き相被告人清、同光義、同五一の三名は屋外において見張をし、相被告人義一、被告人庄次は大庭啓作と共に居宅内に侵入し、右啓作において前記かめ及び同人の養女とみ子に対し所携の短刀を突きつけ「金を出せ、騒ぐと殺すぞ」と脅迫し同人らを極度に畏怖せしめ、よつて右かめ所有の現金一三、〇〇〇円を強取したものである、というのである。

第二、証拠について

司法警察官作成の昭和二三年一〇月二七日付供述調書、前田かめ、前田とみ子の検察官に対する各昭和二三年一〇月二七日付供述調書を総合すれば、つぎの事実を認めることができる。すなわち、昭和二三年一〇月二七日午前一時頃何者か三名が右前田かめ方居宅内に押し入り、一人の男が右手に刃渡六、七寸位の匕首を持ち、左手に懐中電灯を持ち、前田かめ、前田とみ子の両名に対し「騒ぐと殺してしまうぞ」、「金を出せ」などと申し向け、その反抗を抑圧し、前田とみ子をして同家表五畳の間においてあつた抽斗式薬箱から現金約一〇〇円を取り出させてこれを交付させ、さらに同女に対し「もつとあるだろう、もつと出せ」などと申し向け、同女をして同家奥六畳間の棚の上においてあつた現金一三、〇〇〇円(一、〇〇〇円札一三枚)在中の新聞紙包をおろさせ右現金を交付させ、他の拳銃様のものを持つた男が同女に対し「箪笥の鍵を出せ」と要求したが、同女は「それだけはよして下さい」と断つた。もう一人の男は同家店の土間において一把の藁縄を持つてこれを解いていた。以上三名の賊は何ごとか話合つた上間もなく南側の入口から揃つて出ていつたが、三名のうちの誰かが「一時間以内に騒ぐとカニ(承知)しないぞ、名をあげると火をくつつけるぞ」と脅して出ていつた。強盗が出ていつた後、店の陳列台の上にあつたバタボール約一、〇〇〇個在中の高さ八寸位巾四寸四方位の硝子製菓子壜一個(時価合計一、一〇〇円相当)、燐寸小箱一個がその時盗まれたことが判つたのである。

右のとおり、本件強盗の犯人が三名であることは当時はつきりしていたが、犯人が何人であるかは不明であつたことは明らかである。

ところが、被告人ら五名が本件犯人であるとして逮捕され起訴された後に作成された前田とみ子の検察官に対する昭和二五年一二月一日、同月二〇日付各供述調書、第二回公判調書中の証人前田かめの供述記載、第三回公判調書中の証人前田とみ子の供述記載の中には、匕首を持つていた男が大庭啓作であり、拳銃様のものを持つていた男又は土間にいた者が被告人庄次であるかのごとき供述記載があるが、前田かめ、前田とみ子は被告人ら五名が検挙された新聞等によりその氏名を知つた後、警察官から大庭啓作の写真を示され「お前の処へ入つた犯人はこの人間だ、覚えがあるか」と尋ねられ、その眼付、身体の格好などが大庭啓作に違いないように思つたというのであり、前記検察官に対する各供述調書、第二、三回公判調書中にも大体同旨の供述記載があるに止り、かえつてかめ、とみ子両名の匕首を持つていた男が大庭啓作であるとは断言できない旨の供述記載がある。又犯人の一人が被告人藤井庄次であると肯認するに足る証拠もない。第二回公判調書中の証人前田かめの供述記載中には法廷において被告人ら五名を見てこの中に自分方に強盗に入つた男がいるかどうか判らない旨の供述記載さえある。

要するに、本件においては、大庭清の検察庁、裁判所での供述(自白)を離れて被告人を本件犯人であると認めるに足るだけの証拠がない。そこで、大庭清の右自白が果して任意になされたものか、さらに、右自白が果して真実を述べているかが問題である。以下、この点につき順次検討することとする。ただ、その前に、本件捜査の端緒、捜査の経過、公判における被告人らの供述、主張を顧みておこう。

第三、捜査の端緒、捜査の経過、公判における被告人らの供述、主張等について

本件は、前記のとおり、昭和二三年一〇月二七日午前一時頃発生したが、同二五年一〇月二〇日相被告人大庭清は別件窃盗の容疑で静岡県駿東地区警察署に検挙され、同日右容疑で逮捕されたが、余罪を追求され、同月二三日に至り遂に警部補杉山仲一に対し本件犯行を自白するに至つた。そして、翌二四日午后一時同署において本件強盗の逮捕状により逮捕された。さらに、同月二七日静岡地方裁判所沼津支部において被疑者藤井庄次(本件被告人)に対する本件強盗事件につき裁判官藤本久から証人として尋問を受けて自白し、同年一一月一日前記杉山仲一に対し再び自白し、同月一四日静岡地方検察庁沼津支部において検察官大西秀夫に対しても自白した。

右のとおり、大庭清が同二五年一〇月二三日本件犯行は大庭啓作、藤井義一、藤井庄次、大庭光義、芹沢五一、大庭清の六名の犯行であると自白したので、同日右自白を主要な資料として藤井義一、藤井庄次、大庭光義、芹沢五一の四名に対する本件強盗容疑の逮捕状を請求し、同日右逮捕状は発布された。なお、大庭啓作は当時すでに死亡していた。

藤井義一、芹沢五一は同二五年一〇月二四日早朝前記警察署に出頭を求められ、芹沢五一は同日午前一〇時同署において右逮捕状により逮捕されたが、同日警部補杉山仲一に対し本件を自白し、裁判官の勾留質問に対しては右自白を飜した。同月三〇日同署巡査部長飯尾徳之進に対し再び自白した。

大庭光義は当時新潟市内の製紙工場で働いていたが、同月二九日朝同工場において別件窃盗の逮捕状により逮捕され、直ちに沼津へ押送され同日夜前記警察署に留置された。翌三〇日午前九時四〇分同署において本件強盗の逮捕状により逮捕され、同日前記杉山仲一から弁解の機会を与えられた際、同人に対し本件を自白したが、間もなくこれを飜した。

藤井義一は同月二四日午前一一時三〇分同署において本件強盗の逮捕状により逮捕されたが、本件犯行につき一度も自白はしなかつた。

被告人藤井庄次は当時神奈川県相模原市内において働いていたが、その頃別件窃盗の逮捕状により逮捕され同署に押送され、同月二五日午后零時三五分同署において本件強盗の逮捕状により逮捕されたが、被告人藤井庄次も又一度も本件犯行につき自白はしなかつた。

以上述べたとおり、大庭清はひとり警察官、裁判官、検察官に対し自白し、芹沢五一は警察官に対してのみ自白し、大庭光義は警察官の弁解録取の際一度自白したのみで、藤井義一、被告人藤井庄次の両名は終始一貫して否認していた。

被告人は、藤井義一、大庭光義、芹沢五一、大庭清と共に昭和二五年一一月一四日本件住居侵入強盗被告事件(なお、藤井義一、芹沢五一に対しては同時に窃盗被告事件)につき当裁判所に起訴され、被告人ら五名は公判廷においていずれも終始本件犯行はやつていないと供述していたが、被告人藤井庄次を除く他の四名は同二八年三月三日いずれも本件は有罪として各懲役二年六月、二年間刑執行猶予に処せられ、その判決はそのまま確定した。被告人藤井庄次は昭和二七年五月二日の第九回公判期日以降不出頭で、やがて保釈は取り消され、同三六年一二月九日収監されたが、その間裁判官は更迭し、当裁判所が、被告人の本件を審理することとなつたが、被告人は当公廷においても終始本件犯行はしていないと主張している。なお、藤井義一、大庭光義、芹沢五一はいずれも当公廷において証人として本件犯行はやつていないと供述している。

ところが、大庭清は昭和三七年二月五日静岡地方検察庁沼津支部において検察官堀部玉夫に対し又もや自白し、同年四月二六日第一五回公判期日に当公廷で証人として尋問を受けたが、その際本件犯行は前記のとおり被告人ら六名の犯行であると供述したのである。

第四、大庭清の供述(自白)の任意性及び真実性

かようにして、検察官が被告人藤井庄次を本件犯人であるとする証拠の中心となるものは大庭清の供述証拠である。すなわち、それは、(1)裁判官藤本久の証人大庭清に対する尋問調書、(2)大庭清の検察官大西秀夫に対する供述調書、(3)大庭清の検察官堀部玉夫に対する昭和三七年二月五日付供述調書、(4)証人大庭清の第一五回公判期日の当公廷における供述の四つの供述に外ならない。もつとも、相被告人芹沢五一の司法警察員に対する供述(自白)調書二通、相被告人大庭光義の司法警察員に対する弁解(自白)録取書は、いずれも被告人藤井庄次の同意がないから本件においてこれを証拠とすることができないことはいうまでもない。

(一)  大庭清の供述(自白)の任意性

大庭清は本件犯行を自白するに至つた経緯、自白の内容についてつぎのように主張している(第七回公判調書中の証人大庭清の供述記載)。

大庭清は呼出により昭和二五年一〇月二〇日午前九時頃駿東地区警察署に出頭し、同二二年頃の毛布の窃盗につき取調を受け、これと同じ頃の澱粉の窃盗事件についても取調を受けたが、いずれもこれは認めた。刑事は被害届を見ながら誰々と一緒に米を盗んだのではないかといつて一日中取調を受けた。知らないと答えると「嘘をいうな」といつて、刑事は私の頬を四、五回殴り、頭を机に叩きつけたりして私を留置場に入れた。仕方がないので米の窃盗三件を認めた。夕方になつて杉山主任が「お前はもつと大きな事件に関係しているから留置する」といつた。翌日は朝から一二時頃まで取調を受けた。二二日は午前九時頃村松刑事に呼ばれ、前田かめ方の写真を見せられ、「この写真の家を知つているか」と尋ねられ、知らないと答えた。同刑事は「大庭光義や大庭啓作とは遊ばないか」、「君は大きなことを大庭啓作らと一緒にやつているだろう」、「嘘をいうな、今までのことは一切ぶちまけろ」などといい、否定しても聞き入れず、私の額を突いて「一切のことをいえば出してやる」としつように追求したので、私は早く留置場から出たかつたので、「やりました」と答えた。被害者の方では犯人が三人といつているのに六名と述べたのは、村松刑事が「あいつもやつたろう、こいつもやつたろう」と名前をあげ、「藤井庄次等を知つているか」、「大庭啓作はどうか」、「お前らは町田クラブに集つて悪いことをしているだろう」などといわれたので、合槌を打つたのである。町田倶楽部での話も「こうではないか、ああではないか」と聞かれて、そのとおりを答えた。啓作が匕首を見せたということはそうだろうといわれたので、そのまま肯定した。庄次が玩具のピストルを持つていたと述べたのも、村松刑事が「庄次がピストルを持つているだろう」といい、「知らない」というと「嘘をいうな」と叱られた。指笛の点は「現場と見張の場所があんなに遠くては連絡ができないのではないか」といわれたので、指笛で合図をしたと述べた。見張をしたとの点も、村松刑事が「お前は身体が悪いから、見張位しかできないだろう」というので、そのとおり述べた。バタボールの壜の大きさも先方でこれ位の大きさだろうというので、それに合わせておいた。分前三〇〇円を貰つたとの点も、はじめは貰わないと述べたが「いくらいくら貰つたろう」といわれてそのように認めた。共犯者の服装についても「誰々はいつも赤い靴をはいており、格好はこんな風だろう」といわれたので、合槌を打つたのである。大宮山刑事にはビンタを八つ位殴られ、村松刑事には額を突き飛ばされた。裁判官の勾留質問の際には、村松刑事から「警察で述べたことをそのまま裁判所で述べないと五、六年刑務所におかれるぞ」といわれたので、裁判所でもそのとおり述べた。又警察を出る時、村松刑事から「警察で述べたとおりに云えるか、もし間違うと大変なことになるぞ」といわれたので検察庁で検事に対しても警察で述べたとおりのことを述べた。その后三、四日して裁判所で(証人)尋問を受けた時には、杉山主任が立会つていたので、本当のことは述べることができなかつた。なお、村松刑事からは「執行猶予にしてやる」ともいわれた。というのである。

弁護人は大庭清の警察における自白は右のように警察官の暴行、強制、誘導等によつてなされたものであるから、任意性がない。そして、裁判官藤本久の尋問調書、検察官大西秀夫に対する供述調書も、かような状況の影響下に作成されたものであるから、いずれも任意性を欠くものであると主張する。

一方、本件記録によれば、同二五年一〇月二三日警部補杉山仲一が第一回供述調書を作成し、同月二四日本件強盗の逮捕状により逮捕し、同月二六日勾留し、同月二七日裁判官藤本久が証人として尋問し、さらに同年一一月一日前記杉山仲一が第二回供述調書を作成し、同月一四日検察官大西秀夫が第一回供述調書を作成したことが明白である。

他方、第四回公判調書中の証人大宮山利男の供述記載、同証人の当公廷における供述によれば、同人は大庭清を毛布、澱粉の窃盗事件につき取調をし、余罪も捜査したが、村松部長と二人で取調に当つた。本件強盗事件については杉山主任の捜査の補助をしたに過ぎない。自分は地声が大きいので、大庭清は私の取調がきついと感じたかも知れない。被害届を見て余罪を取調べたかどうかは記憶がない。大庭清に対し暴行を加えたことはないと述べている。

第三回公判調書中の証人村松俊の供述記載によれば、同人は昭和二五年一〇月二〇日か二一日頃佐野製紙の毛布の窃盗事件で大庭清を取り調べた際、色々のことを尋ねた。他にも事件があり、それは米や衣類の窃盗であつた。当時の被害届を出して調べてみると、大庭清の述べた手口が種々の事件と似ていたので、その日は日曜だつたと思うが、午后一時頃から刑事室で余罪を追求した。清はそれらの事件は大庭光義、藤井義一、藤井床次、芹沢五一らと一緒にやつたとその名前を出した。その当時青年は不良勝であつたので、世の中のことを話し「もし悪いことをしていたら全部を話しなさい。そして自分の身を清算して真面目になるように」といつた。すると、清はいずなりを正し涙を流して「誠に申訳ありませんでした、実は岩波で強盗をしました。それは大庭啓作が主となつて、私は啓作に連れて行かれて見張をしたことがあります。これでも罪になるでしようか」と述べた。本件強盗事件を最初から聞いたのではない。「クラブに遊びに行つたりして悪事をした」と云つたので、その附近の被害届などと照り合わせたりして余罪を追求したら、清は本件強盗を自白した。自分は調書は作成せず、警部補杉山仲一が作成したが、その調書を見たら、その内容は私の聞いたことと殆んど一致していた。ただ金の分配のことだけは加わつていたように思う。無理な取調はしたことはないと述べ、証人村松俊は当公廷においては自分は毛布窃盗事件で大庭清を取り調べ、余罪も取り調べたが、被害届を見て一つ一つ取り調べたことはない。全部清算するといつて任意に自供し、本件も素直に自白した。余罪(窃盗)の共犯者の中には、芹沢五一がいたが、他の四、五人は誰であつたかは記憶がない。その際大庭清に対し暴行を加えたことはない。本件被害者方の写真を示して取り調べたこともない。その他大庭清が主張する前記のようなことを同人に云つたことはないと簡単に否定の証言をもつて答えている。

第三回公判調書中の証人杉山仲一の供述記載によれば、同人は本件の端緒は大庭清を窃盗事件の共犯として取調中にえた。村松、大宮山の両刑事が清の取調をした。村松刑事から清が本件を正直に述べているという報告を受け事件のあらましを聞いたので、私が取調べ調書を作成した。その供述は任意になされた。裁判官の勾留質問の際には私は同席していたと述べ、証人杉山仲一は当公廷において裁判官の証人尋問の際に自分が立会つたかどうかは記憶がないと述べている。

右に述べたとおり、大庭清の主張と取調に当つた捜査官である大宮山利男、村松俊、杉山仲一の各供述との間には相当食い違いがある。もつとも、捜査の段階において捜査官と被疑者とでは、しばしば事態に対する理解と認識を異にするものである。従つて、かような食い違いがあることは当然なことともいえよう。しかし、大庭清の右に述べたような具体的事実を示した主張に対しては、多少誇張した点があるとしても、その全部を一概に退けることはできないように思われる。とくに、第三回公判調書中の証人村松俊の前記供述記載と大庭清の主張とを対照して見ると、大庭清は進んで真実を述べたものではなく、村松俊においてある事実を仮定して大庭清に対し供述を強要ないし誘導したのではないかという疑いを抱かざるをえない。

ここに注意すべきことは大庭清の精神力、体力、性格等である。清は昭和四年六月一〇日生で、本件取調当時満二一才であり、幼少から虚弱で、小学校三年の頃肺炎を罹い約一ヵ年学校を休み、その后常に頭が痛いと訴え、気が弱く叱られたりすると、鼻血を出したり、間が抜けたようになり、寝小便をし、学校でも大小便の粗相をしたこともあつたことは第四回公判調書中の証人大庭マンの供述記載、証人芹沢五一の当公廷における供述等によりこれを窺知することができる。第四回公判調書中の警察官である証人牧野茂雄の供述記載によれば、同証人は本件取調中大庭清が頭痛を訴えたので白い錠剤(薬品)を二回与えたことも、これを認めることができる。又証人杉山仲一は当公廷において大庭清は俗にいう先き走りをする男又はおつちよこちいであると述べている(更新前弁護人から大庭清の自白は虚偽のものであるとして、その精神鑑定の請求がなされたが、右請求が却下されたことは、まことに遺憾なことといわなければならない)。

かように見てくると、大庭清の村松俊に対する自白は、直ちに法律上いわゆる任意性がないと断定しその証拠能力を否定することは困難であるけれども、少くとも、村松俊の強要ないし誘導に対し大庭清自身は主観的には真実に沿わないことであつても、自白せざるをえない心理的圧迫を感じていたのではないかということは必ずしも否定することができない。ここに、虚偽の自白が生れる可能性があつたものといわなければならない。

杉山仲一は村松俊から大庭清が本件強盗の自白をした旨の報告を受け、直ちに同人を取り調べ調書を作成したことは前記証人杉山仲一、同村松俊の各供述記載により明らかである。右のごとく実質的な取調をした者と調書の作成者とは異るが、その時期が接着し、場所も同じ警察署内であり、杉山仲一において特に任意性保持のため特段の配慮をした形跡が認められないから、右供述調書の任意性についても、村松俊に対する自白のそれと同様に解さなければならない。

さらに、裁判官藤本久の証人大庭清に対する尋問調書、大庭清の検察官大西秀夫に対する供述調書の任意性についても、大庭清の右に述べた心理状態が依然として継続しているうちに作成されたことが認められるから、右各調書の任意性についても、また同様に解せざるをえない。そこで、進んで右自白の内容を些細に検討し、その真実性の有無を究明することとしよう。

(二)  大庭清の供述(自白)の真実性

裁判官藤本久の証人大庭清に対する尋問調書の要旨は、昭和二三年一〇月二六日午后八時頃大庭啓作が私の家にきて遊びに行こうといつて誘われ一緒に外へ出て深良村町田という所にある町震倶楽部に行つた。そこには私の知合である芹沢五一、藤井義一、藤井庄次の三人がいた。暫くしてそこへ私の知合である大庭光義がきた。そこで、その時大庭啓作が最初岩波駅の近所のある家で今夜強盗をしようといい出してその相談を六人でした。啓作が刃渡七寸位の短刀を持つており、これで今夜強盗をやるんだといつた。町震倶楽部を出たのは午后一一時三〇分頃である。町震倶楽部を出て深良街道に沿つて岩波駅の方に向つて行き、深良街道と御殿場街道と交錯した所から御殿場街道を二、三百米位行つて被害者前田かめ方の家に着いた。岩波駅の近くで御殿場街道の裏手の岩波駅の見える所に啓作が私を連れて行き、そこで私に「お前は御殿場街道深良街道から誰かこちらへくる人があつたら指笛を吹いて知らせろ」といつたので私はそこで二十分位見張をしていた。その間人がきたので指笛を吹いたが、その人は被害者宅の方へはこなかつた。数日後啓作から芹沢五一が被害者宅の上手の所で御殿場街道の上の方からくる人を見張つていたということを聞いた。三十分位見張をしていると、被害者宅の方から五人が急ぎ足で歩いてきて大庭啓作が飴の入つた直径一尺位のガラスの壜を持つていてこれがあつたといつた。私もガラス壜の中へ手を入れてその飴を食べ町震倶楽部へ皆で帰つた。その時は一〇月二七日の午前一時過であつた。強取した物は現金とガラス壜であつた。町震倶楽部で大庭啓作が強取した現金を私に見せたが、いくらであつたかは判らなかつた。数日後大庭啓作が私の所にきて現金三〇〇円を出したので、それを受け取り、その後煙草銭等に費つた。なお、町震倶楽部から帰るとき、啓作が五一、義一、庄次の三人にこれを頼むといつてガラス壜を渡したが、その後のことは知らない。その晩の共犯者の服装をいえば、啓作は黒ジヤンバーに黒いズボンで赤い靴をはいており、五一は上下黒つぽい洋服を着て地下足袋をはき、義一は国防色の上衣に黒つぽいズボンで草履をはき、庄次は上下黒つぽい洋服を着てチヨコレートの靴をはき、私は薄茶のジヤンバーに黒いズボンで駒下駄をはいていた。光義も黒つぽい服装をして草履をはいていた。啓作、光義、義一は満二二年で、庄次は満二三年で五一は満二〇年、私は満二一年である、というのである。

つぎに、大庭清の検察官大西秀夫に対する供述調書の要旨は、強盗の事実についてはすでに裁判所で申し上げたとおりであるが、当夜夕食后の午后七時半頃啓作が私方に参り私を呼び出し、歩きながら今夜庄次等と金もうけに行こうといつた。啓作のいう金もうけというのは泥棒することだということはすぐ判つたが、強盗をやるのだとはその時は気付かなかつたので、私も啓作のいうとおり一緒に盗みに行く気になり町震倶楽部に行つたところ、庄次、義一、五一が倶楽部におり、間もなく光義もやつて参り、六人で暫く雑談をしていた。そのうち啓作がそろそろ出かけようと申し右六人で外へ出た。この時私は光義、五一、義一等も一緒に盗みに行くのだとはつきり知つた訳であるが、同人らはすでに私が倶楽部に行く前に打合ができていたようであつた。私達が倶楽部にいる時私は大庭啓作が白鞘の七寸位の短刀を持つているのを見たので、前述のように私は啓作等と盗みをする積りでいたのであるが、啓作等は盗みに行つて発見でもされた時にはその短刀で強盗をやる積りでいるのではないかとその時はじめて気がついたのである。倶楽部へ行く途中私が何処へ入るのだと啓作に尋ねたところ、同人は岩波駅のそばの家に入るのだと申した。(この時裁判官藤本久の証人大庭清に対する尋問調書を読み聞され)私達が前田かめという家で強盗をやつた時の状況は只今御読聞けのとおりである。一〇月二七日という日時は、はつきり記憶していた訳ではなく、私の記憶では大体一〇月か一一月頃であつたと思つていたところ、警察で調を受けた時、前田方の強盗被害は一〇月二七日であつたと聞かされ、裁判所でもそのとおり答えた次第である。なお、私達の服装について申し上げたのも古いことであり、はつきり記憶していた訳ではありませんが、うろ憶えにおぼえていたのをそのまま申し上げたので、確実なものではない。しかし、当夜大庭啓作が赤靴をはいていたのは、はつきり記憶している。右以外の点はすべて裁判所で申し上げたとおりである。町震倶楽部に帰つてから啓作が強取した現金を私に見せたと申したのは特に金を出して見せたのではなく、同人がポケツトから出した処を私が見たのである。その金は二ツ折になつていたが、いくら位あつたかは一寸見ただけであるから判らなかつた。又啓作はそれを強取してきた金だといつた訳ではないから、取つてきた金であるかどうかもはつきり断言できないが、強盗に行つた直后のことであるから多分その晩取つてきた金だと思い、右のように申し上げた次第である。その夜私達はいつたん町震倶楽部に行き、取つてきた壜に入つている飴を食べ暫く話をしていたが、私と啓作、光義の三人はさきに帰つた。その時啓作は残つた三人に壜の始末をしておけといつていた。右のように、私は当夜前田かめという家から啓作等がいくら金を取つてきたかは知らないが、その後二、三日経つてから啓作が又私を呼び出して南堀倶楽部へ行きそこでこの前の分前だといつて三〇〇円呉れた。その時私は啓作にこれだけかと申したところ、これでも良い方だといつていた。しかし、私は外の者達がいくら分前を貰つたかは判らない。その後暫く経つてから、私が村の者から岩波駅附近の雑貨屋に強盗が入つたということを聞き始めて私達が入つた家が前田という家であることを知つたのである。なお、私は裁判所でも申し上げたとおり、岩波駅東側の県道と村道の交叉点附近で見張をしていたので、啓作等が入つた家がどの家であつたかは当時はつきり知らなかつた。その時啓作は私にその交叉点附近にいて県道と村道を見張つており、人がきたら指笛をならし合図をするようにと申したので、同人等の入る家はそこから余り遠くない処だということは判つていた。啓作が私に指笛を鳴らせといつたのは私が前述のように毛布を盗んだ頃まで製紙工場に勤めており、工場内では機械の音などで声を出した位では判らないので指笛で合図をしており、私が指笛を鳴らすことは啓作も知つていたからである。私は当夜前田方へ行く途中啓作に大丈夫かと申したところ、同人はお前は見張をしているだけだから、もし見つかつても罪をきるようなことはないといつたので、私も同人が前述のように短刀まで用意し場合によつては強盗をするのだと気付いていたので余り気が進まなかつたが、同人のいうとおり見張をしたのである。というのである。

そこで、右自白の内容について検討してみる。

(1) 謀議について

右尋問調書によれば「町震倶楽部において六名が揃つた時、啓作が岩波駅の近所のある家で今夜強盗をやろうといい出し六人でその相談をし、啓作が刃渡七寸位の短刀を持つており、これで今夜強盗をやるのだといつた」となつているが、検察官調書によれば、「啓作が呼びにきて、歩きながら同人は今夜庄次等と金もうけに行こうといつた。自分は金もうけとは泥棒のことだと思つた。町震倶楽部で六人が暫く雑談をした。そのうち啓作がそろそろ出かけようといい、六名が外へ出た、この時私は外の者も一緒に盗みに行くのだとはつきり判つた訳であるが、同人らはすでに私が倶楽部に行く前に打合ができていたようであつた。倶楽部にいる時啓作が短刀をもつていたのを見たので、場合によつては短刀で強盗をやるつもりではないかとはじめて気付いた」となつている。

両者の間にはかなりの食い違いがある。六名で強盗の相談をしたというが、果していかなる謀議がなされたのかその内容を知ることができない。尋問調書によれば「啓作が短刀を持つており、今夜これで強盗をやるのだといつた」といいながら、検察官調書によればこの点が極めてあいまいとなつている。清は強盗に入るべき家すら知らず、その後幾日か経つてはじめて被害者方を知つたというのである。又被害者らがいう懐中電灯、ピストル様のもの、覆面に使用したと思われを風呂敷等についても、右調書中に全くその記載がない。

(2) 清の見張の場所

右に触れたとおり、清は共犯者が何処の家に強盗に入るかを知らずして見張をしたということ自体極めて不自然なことである。見張をしたという場所は、県道と村道との交叉点であり、一応地形的には合理的なものといえようが、前田かめ方と該場所との間は道路が曲つており、その距離は約一七〇米である(当裁判所の昭和三七年七月六日の検証調書参照)から、指笛をもつて屋内にいる共犯者に合図するには余りにも遠すぎると思われる。屋外の見張者に連絡することも考えられないわけではないが、かような点につき何ら打合をしたと認めるに足りる供述は全く見当らない。現に清は指笛を鳴らして合図をしたというが、その反応についても、全く述べるところがない。

(3) 賍品について

証人尋問調書によれば、飴の入つていた壜は直径一尺位のガラス丸壜であつたというが、被害者によれば、高さ八寸位で巾四寸四方位のガラス角壜である。又尋問調書中には清が倶楽部へ帰る途中飴を食べながら歩いたという供述記載があるが、検察官調書中には倶楽部に戻つてから食べたと述べている。いずれが真実か判断するすべもないが、飴は一個宛紙に包んだバターボールであつたというのであるから、途中で六名が紙を捨てて飴を食べながら歩いたのであろうか。

現金の被害は約一三、一〇〇円と認められるが、当時の金額としてはかなりのものといわなければならない。尋問調書によれば、「倶楽部で啓作が清に強取した現金を見せたが、いくらあつたかは判らなかつた」といい、検察官調書においては「特に金を出して見せたのではなく、同人がポケツトから出したところを見た。その金は二ツ折になつていたが、いくら位あつたか一寸見ただけであるから判らなかつた。又啓作はそれを取つてきた金だといつた訳ではないから、果して取つてきた金かどうかも断言できない。強盗に行つた直後のことであるから、多分その晩取つてきた金だと思つた」と述べている。いやしくも、強盗を敢行したとすれば、何をどの位取つてきたかは共犯者として最も関心をもつことがらであろう。かような点から見れば、右供述はまことに不自然である。又共犯者の面前に現金を出したとすれば、他の共犯者の間にもその分配等につき何らかの発言がなされることも当然なことであろう。しかし、この点についても一言の供述もない。

清の貰つたという分前三〇〇円も、一三、一〇〇円の総額からいえば、見張をしたに過ぎないからといつても、余りに少くはなかろうか。又その受領した場所も、尋問調書では清の家であるとし、検察官調書では南堀倶楽部であるといい、一貫していない。

(4) 共犯者について

当時被告人ら六名がしばしば町震倶楽部に集つて遊んでいたことを認めるに足る確証はない。かえつて証人小沢弘志、同小林正夫、同神戸隆義に対する各尋問調書によれば、当時大庭啓作、大庭光義大庭清は深良村南堀部落に居住し、藤井義一、芹沢五一、被告人は同村町田部落に居住し、南堀部落には南堀倶楽部、町田、震橋両部落には町震倶楽部があり、各部落の青年はそれぞれ当該部落の倶楽部に属し、特別の場合の外は他の部落の倶楽部に遊びに行くことは殆んどなく、被告人は当時刑務所から出所したばかりで町震倶楽に出入していなかつたことが認められる。

第三回公判調書中の証人村松俊、同杉山仲一の各供述記載、第四回公判調書中の証人大宮山利男の供述記載、右証人らの当公廷における各供述によれば、本件当時被告人ら六名がしばしば町震倶楽部に集まり本件以外にも数件窃盗を犯し、大庭清がその旨自白し、いずれも検察官に事件送致をしたといい、検察官の釈明にも、おおむねこれに符合するかのごとき事実があるもののようであるが、すべて起訴猶予処分となり、その記録はすでに廃棄されていて、その内容を知ることができない。しかし、芹沢五一、藤井義一については、本件起訴状自体により明らかなように、甘藷約一二貫(時価六五〇円相当)、自転車一台の窃盗事件により起訴されているにもかゝわらず、被告人ら五名は他の窃盗事件についてはすべて起訴猶予処分にされ、被告人らは窃盗もやつていないと主張しているところから見れば、前記各証人が述べているように被告人ら六名が本件以外に果して窃盗を犯したかどうかも疑問がないわけではない。

以上述べたごとく、大庭清の証人尋問調書、検察官大西秀夫に対する供述調書は、それ自体その内容について種々疑問があり、その真実性に疑いがある。そして、さきに述べたその任意性をも考え合わせると、右自白の真実性についてはいよいよ疑問を抱かざるをえない。従つて、右調書(自白)は信用するに足りるものとして断罪の証拠とすることができない。

つぎに、大庭清の検察官堀部玉夫に対する供述調書の真実性について考えて見ることとする。その内容は前記検察官大西秀夫に対する供述調書のそれと異るところはない、むしろその引き写しといつてもよい。すでに検討したとおり、検察官大西秀夫に対する供述調書の内容につき種々疑問があり、その内容自体信用するに足りないものである以上、検察官堀部玉夫に対する供述調書の真実性もまた疑わしいものといわなければならない。

最后に、証人大庭清の当公廷における供述の真実性について考えて見よう。その内容は一応本件犯行を容認しているものの、その供述態度はきわめてあいまいで、具体的内容は殆んど忘れたといい、検察官の個々の尋問に対し単に……と思う、覚えていない、判らない、知らないなどという答をもつて供述し、到底真実性を含んだ自白とはいえない。事件発生以来約一四年も経過しているから、記憶が薄らぐことは理解できないわけではないが、昭和三七年二月五日大庭清は検察官堀部玉夫から本件につき取調を受け、その際、同検察官から裁判官藤本久の証人尋問調書、大庭清の司法警察員に対する昭和二五年一〇月二三日付、同年一一月一日付各供述調書を読み聞かされ、その通り間違いないと述べ、個々の具体的事実についても述べていることを考え合わせれば、証人大庭清の当公廷における供述は極めて不自然であり、到底真実を物語つたものとは認められない。むしろ、同人の起訴前の自白、堀部検察官に対する自白がいずれも虚偽であるからこそ、かような供述しかできないのではなかろうかとの疑いさえ抱かざるをえない。

第五、結論

以上述べたとおり、本件公訴事実については大庭清の供述(自白)はいずれもその真実性に疑いがあるから、これを証拠とすることはできず、右供述以外に被告人を犯人であると断定するに足りる証拠がない。そこで、本件は犯罪の証明がないから、刑訴三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判官 中島卓児)

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